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土台のある都

T・オースティン-スパークス

第八章 都の明かり

聖書朗読:黙二一・十~十一、十八、二一、二二・一、ガラ四・二五~二六。

「透明な」というこの言葉は、これらの節の中に一度ならず現れます。また、例えば「純粋な金」「透明なガラスのような」のように、その同義語も出てきます。これらの言葉は光の観念を示唆します。これらの言葉は、天から出て神から下って来る天のエルサレムに関して述べられている光と関係しています。その明かりは高価な宝石のようであり、碧玉のようです。

主の天的な民の光について述べるにあたって、私たちは再びとても厳粛で、深刻な、大切な特徴に触れることにします。その特徴には、それに関する途方もない歴史があります。主の民の歴史、そして霊の命の歴史はすべて、光と暗闇、真理と虚偽、純粋さと姦淫・混合、透明性と曖昧さ、開放性と秘匿性の歴史です。この長い歴史を表現するのに他の多くの言葉を用いることができます。この歴史がこれほど長く、これほど多彩なのは、すべて敵の執拗な絶え間ない試みのせいです。敵は、神からのものを疑わしいもの、不確かなものにしようとしてきましたし、絶対的真理、絶対的純粋さ、絶対的透明性というその途方もない力をそれから奪い去ろうとしてきました。

キリスト来臨の遥か昔に、サタンはこれらのバビロン的要素をこの地上に広めていました。これらのバビロン的要素は、教会が霊的衰退・弱さの状態に陥る時をひたすら待っていました。それはこの霊的団体に襲いかかり、その命を吸い取って損なう寄生虫となる機会をつかむためです。ですから、新約聖書の外に移る前にすでに、霊的に衰退した状況の所では、バビロン的特徴、祭司制度、聖職者階級制度、形式主義、儀式主義、他の多くの事柄――それらはバビロンに由来するものであり、オカルト、秘教、美学の中に見られます――といった状態であることがわかります。これらの観念は今や、ローマの体系全体の総計であり本質です。これらのものはみなバビロンから来たものであり、教会が衰退するのをこの世で待っていました。そして、この衰退が起きるやいなや、教会を掌握して侵害したのです。それらはみな、黙示録の最初の数章の中に見いだされます。また、他の箇所にも、奥義的バビロンのこの宗教性の数々の要素が見いだされます。それらの狙いは、直接的・即座にキリスト教を撲滅することや、教会の存在を消し去ることではなく、教会の立場を神の御前で曖昧なものにするよう様々なものを混合させることでした。それは、神が教会をもはやご自身の純粋な花嫁と認められないようにさせるためでした。

七つの教会に対するこれらの手紙だけでなく、パウロのいくつかの手紙においても、これらの異教的要素を除き去るようにという要求に気づきます。彼が書き送った相手の状態は、とんでもない量の異教的要素を表しています。コロサイ人への手紙を見てください。この手紙を書いた目的は何だったのでしょう?霊的階級全体、霊的存在の領域、天使や大天使といったものが、異教により、見事に体系化されて、イエス・キリストまでもがたんに大天使の上位にある者として位置づけられたのです。他の天使はみな、確かに、彼より劣る様々な階級に配置されましたが、彼には大天使を上回る地位しか与えられませんでした。遥かに高い階級にあるけれども、天使の中のひとりとしての地位しか与えられなかったのです。コロサイ人への手紙は、文脈から分かるように、一方において、この偽りの教えの体系全体を非難するものとして書かれました。それがすべていかに邪悪なのかを指摘することによって、それを滅ぼすために書かれました。他方において、キリストに正当な地位を与えるために書かれました。この手紙の一章は、主イエスのパースンと御父との永遠の関係とに関する最高傑作です。彼は万物が造られる前に存在しておられました。万物は彼によって造られました。彼はかしらです。しかし、混合によってあのようなあらゆる害悪がなされたのです。つまり、真理の絶対的純粋さ、イエスにのみある真理を損なったのです。

これは、敵がこれまでずっと真の霊的力をどれほど損なおうとしてきたのかを示す、とてもささやかで不十分な例にすぎません。敵はこれを諸々の要素を導入することによって行おうとしてきました。それらの要素は真理からその絶対性を除き去り、教会の透明性を損ない、そして、「その明かりは高価な宝石のようであり、碧玉のようであった……」という教会の姿に関するこの究極的啓示に反対しようとするものでした。純粋な金、透明なガラス、水晶のように透明であること――これがシオンの特徴であり、主の民の特徴です。これに反対して敵は常に働いてきました。それは、彼ら自身の状態を神の御前で曖昧なものにすることにより、教会の立場を危うくするためです。

精金を曇らせること

すでに見たように、これは第一に教理によってなされてきました。誤った教理に関する何らかの示唆を持ち込めるとき、誤謬を僅かでも潜り込ませられるとき、敵はそれを邪悪なパン種のように働かせます。そしてついには、その類のものが発達して、聖霊を退ける契機となり、それが存在する所では主は進み続けられなくなります。そして、妥協、麻痺、弱さの状況が確立されます。純金、精金が曇らされてしまいます。

教理の線に沿ってこれがなされてきただけでなく、生活の線に沿ってもなされてきました。同じ方法、同じ狙いが敵の活動を支配しています。教理に関して絶対的に正統的なものの上にとても強く立っていたとしても、あなた自身の生活、あなた自身の霊的生活、あなた自身の道徳的生活についてはとても疑わしい状況にあるおそれがあります。神の御言葉の文字にはとても忠実でも、それでもあなた自身の生活と証しについては妥協しているおそれがあります。仕事の取引や、他の諸々の関係や、神の御前におけるあなた自身の生活について、そうかもしれません。透明でないもの、純粋でないもの、清くないもの、まっすぐでないもの、疑わしいもの、おそらくは秘密の習慣があるかもしれません。ああ、もしかすると多くの事柄の中の一つによって、生活の中からあの堅固さ、あの明確さ、あの積極性、あの透明性が奪い去られているかもしれません。そして、時には無意識のうちに当事者の中に、何かに直面することへの恐れ、バレて白状せざるをえなくなることへの恐れが生じます。停滞させるものが生活の背後にあります。そのせいで証しから真の活力が、生活の中から真の衝撃力が、交わりの中から真の実り豊かさと価値が奪われます。往々にして形はありませんが、何かがそこにあります。その上に手を乗せることはできませんが、正しくないもの、透明ではないものが、その生活の中にあることがわかります。そして次に隠し事、ごまかし、分離が生じます。あるいは、他の多くの種類の悪の兆候が生じるかもしれません。それはすべて、神の御前で絶対的に透明ではない何かがあるせいです。敵が一つの要素を植え付けました。その要素が純粋な光を損なって、その生活に影、もやを生じさせたのです。敵の狙いは神にある命の完全な水晶のような透明性を損なって、それにより命全体を麻痺させることです。外形は依然として同じであり、信仰告白はそれまでと全く同じかもしれませんが、停滞してしまうのです。

これを述べたのは非難するためではありません。ご自身の民、エルサレムに対する神の御旨を損なうために敵がそれに沿って好んで働く諸々の線の一つを指摘するためです。神の御旨とはすなわち、エルサレムが最終的に天から出て、神の栄光を持ち、その明かりが高価な宝石のように、碧玉のようになることです。そして、それに関する一切のものが、ガラスのように透明で、水晶のように透明な純金となることです。ああ、このような言葉や句には、何という霊的価値と重みがあることか!

これはみな議論の余地のない明確なことです。私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、敵は絶えず、「自分は雲の下にある」と感じる地点に私たちをいつのまにか引き込もうとしているのです。時として敵は誤った立場を設けて、「自分は誤っている」と私たちに感じさせます。私たちは誤っていないかもしれませんが、敵は「自分は誤っている」と私たちに感じさせて、自信、確信、堅固さ、立場、地位を失うあの領域に私たちを引き込もうとします。その領域で、私たちは潜り込んだ何らかの要素によって弱められてしまいます。敵は、神の民を雲の下に、疑いの下に置いて、彼ら自身の心を疑いや疑問の下に置こうと企てます。それは、透明性、確信、力を損なうためであり、そして、彼らが万人に対して、彼ら自身に対してさえ、大きな問題となるようにするためです。

敵からの毒ガス

個人に関してだけでなく、神の集合的手段についても、これはあてはまります。神が、ご自身の証しをより明確に、より豊かなものにするための手段を起こされる時はいつでも――神の願い・御旨は、御子の性質をより明確に、より完全に啓示することです――悪の全勢力はそれを疑惑の下に置いて、だれの目から見ても又だれが考えても、その上に大きな疑問符が浮かぶようにすることに注意を集中します。

なぜ主の民はこの事実に鈍感なのでしょう?それと並行するある事実のためです。そして、これもまた同じように強力な事実です。その事実とは、その事柄を実際に調べてみると、疑う理由は何もないことがわかるということです。それは全く根拠のない疑惑だったのです。これは明らかに悪魔の働きです。悪魔は、主が御子のより豊かな啓示のために、そしてご自身の民に対するその願いのより豊かな啓示のために用いようとしておられるものを、疑問、疑惑、疑いというこのもやで覆います。それは、危険で疑わしいものと見なされる領域にそれを追いやるためです。主の民が「すべての事柄を試しなさい」という命令に従うよう神に祈ります!

敵の狙いが何か、敵がどのように働くのかが分かります。敵の狙いと敵が働く方法を知ることは、時として助けになります。それを知ってさえいれば、私たちは多くのことから救われるかもしれません。

これは私たちの心へのメッセージです。その危険、危機、敵の策略を知らせてもらうことにより、客観的な方法で、私たちは助けを受けます。それだけでなく、それは内的経験の上に光を投じて、私たちに対する主のすべての取り扱いの目的は私たちを水晶のように透明なこの状態にもたらすことであることを示してくれます。「見よ、あなたは内なる諸部分に真実を求められます」(詩五一・六)。そして求めているものを主は獲得されるでしょう。ご自身の者に対する主の取り扱いは清めの取り扱いであり、この水晶のような透明さ、この純金、この高価な宝石を得るためです。泥を取り除き、もやを取り除き、欺きの方面で働くあの秘密で内密の要素をすべて取り除くためです。それらは嘘、偽りという結果になります。それをすべて私たちの中から根こそぎにすることを主は願っておられます。主は曖昧なすべてのものの敵です。主は完全に透明なすべてのものの味方です。そしてこの暗い実体を取り除くために、主はご自身の火を私たちの生活の中に働かせて清めてくださいます。私たちの個人生活において、そして前述の集合的手段のような場合においても、主はこれを行われます。このようなものが長いあいだ火の外にあるのを、主は許されません。主は徹底的に純粋なこの状態を求めておられます。

何が関係しているのかがわかるでしょう。来るべき代々においては、すべての諸国民はその明かりの中を歩まなければなりません。つまり、彼らは教会という手段を通して主を知る知識を得ることになります。彼らは教会によって統治されることになります。諸国民はその明かりの中を歩みます。これはどのような明かりでしょう?たんなる外面的な後光ではありません。これは霊的・道徳的な栄光の状態が輝き出たものです。これは「神の栄光を持って」いるものの性質自体から発したものです。神があなたと私を清め、浄化し、懲らしめて、その火を働かせて私たちを清めておられるのは、たんにそうすることが目的ではありません。主がそれを行っておられるのは、主の願いは私たちが個人的に善人となることであって悪人になることではないという理由で、たんに私たち自身のためにそうしておられるのではありません。主はそれを望んでおられると思いますが、それがすべてではありません。神が目的としておられるのは、壮大な宇宙的御旨、永遠の使命です。これを主は求めておられるのであり、それにはある条件が必要です。それはシオンの支配的特徴の一つです。つまり、主の御心を完全に表すことです。主の動機は常に、私たちが試練を通っている時に理解するよりも遥かに偉大で壮大です。私たちはそれを個人的問題に引きずり下ろして、「なぜ主は私をこのように扱われるのだろう?」という問いを発してしまいます。主の御思い、御旨、意図の範囲を狭めてしまいます。私たちはそれを局所的なものにしてしまい、そのせいで、自分がそのために備えられつつあった偉大な永遠の使命を理解できていれば受けていたであろう力と助けを失ってしまいます。

「悪魔の策略」

地上のエルサレムに関して神の御言葉が私たちに告げているすべての秘密めいた事柄に注目する時間があったなら、それらの隠された要素によってたびたび脅かされたのは神の御旨だったことがわかったでしょう。絵図として、城壁が築かれつつあったネヘミヤの時代を考えてください。また、敵がどのように自分自身の代表者を宮本体の中に隠したのかを考えてください。宮の中の一つの部屋を一人の代表者に占めさせることにより、敵はすべてを台無しにし、そのすべての働きと立場を弱めようとしました。次にエズラの時代、敵は「私たちはあなたたちがしているように同じ神に仕えます。あなたたちのもとに行って、あなたたちと一緒に働かせてください」と言いました。狡猾です!しかし神に感謝します。この神の人はとても透明な人だったので、状況を見抜くことができました。彼は欺かれませんでした。これらの人々の中に暗闇があることを、彼ははっきりと見ました。彼らの状態は透明な状態でも光の状態でもありませんでした。そこには不誠実さがあり、彼は彼らを締め出しました。そして彼がそうした時、彼らは自分たちがどこにいるのかをはっきりと示しました。これらの方法や他の多くの方法で、敵は神にふさわしくないものを事物の中心に据えようと常に努めていることがわかります。それはその有効性、証しの有益性を損なうためです。エルサレムの歴史は、これらの狡猾な要素がその只中で働く長い歴史です。

私たちの主ご自身の時代に移ることにします。何と多くのこの類の事柄に、彼はエルサレムで遭遇されたことでしょう!人々は彼の言葉尻をとらえようとしました。彼らは常に彼に対して罠を仕掛けました。彼らは欺きによって、罠によって彼を捕えようとして、密かに、隠れて働きました。彼の時代、エルサレムの状況・状態は完全にこのような有様でした。そして、清澄さ、透明性は損なわれました。それでも宮での礼拝は続けられていました。外面的には、この宗教組織はすべて従来どおり進んでいましたが、内側にはこの暗闇がありました。この嘘のゆえに、神はそれを放棄されます。主は度々とても直接的かつ簡潔な言葉でこれを指摘されました。「あなたたちは器の外側を清める……」!。「白く塗った墓」!何という絵図でしょう!彼らが自分たちのしっくいを持って巡回し、自分たちの墓を白く塗るのをご覧なさい。しかし内側では、彼らは「死人の骨でいっぱい」であると、彼は仰せられます。彼らはその外見を実際とは異なるものにしようとしていました。この嘘はこのようなものです。これは悪魔の働きであり、拒絶される結果になります。私たちに対する主の願いは、これまで述べてきたあの光の状態、透明な状態を私たちが理解することです。

次の事柄は愛です。新約聖書の愛の特徴は何でしょう?偽りのない愛!何という言葉でしょう!偽りのない愛――この言葉をクリスチャンたちに向かって使う場面を想像してみてください。これは、実際は全く愛していないのに、偽って愛そうとする者、愛を装おうとする者、愛するフリをしようとする者がいることを意味するのではないでしょうか?主があらゆる美徳、あらゆる要素の中に求めておられるのは、真実であるものです。

これが、透明性を意味する光によって私たちが言わんとしていることです。それは事の純粋性、本質です。言葉、教理の中に真理があるかもしれませんが、それに対応する真理が心の中に、生活の中になければなりません。光は教理の問題かもしれませんが、対応する光の状態が心の中になければなりません。前者のような光や真理を私たちが多く持つことに敵は反対しませんが、できるものなら、それに反する嘘、矛盾を導入することにより、その真価を損なおうとします。

これは厳しく聞こえるかもしれません。確かに、これは厳しいです!厳しくなければなりません!こう述べたのはだれかを非難するためではなく、警告としてです。それはおそらく何らかの問題を解明するでしょう。しかし、私たちはそれを激励や勧告の言葉として心に留めなければなりません。神は決して暗闇の中では建造されないことを覚えておいてください。つまり、光のないところでは建造は不可能なのです。神はこの世界を秩序と豊かさに戻す前に、「光あれ」と仰せられました。神はこの真理の顕現を求めておられます。神の御業は決して暗闇ではありません。そして絶対的光がない限り、建造と発展は不可能です。まっすくでない民、ひねくれた民、常に誤魔化そうとしている民、公明正大でなく背後のどこかに秘密を抱えている民と共に進み続けるのは不可能であることを、あなたはよくご存じです。「そんな人と共に進み続けることはできません」と言わざるをえません。神はそのようです。私たちの中のだれかがそのような状況にあるなら、神はその人に「あなたが絶対的に公明にならない限り、あなたが絶対的に誠実になる境地に達しない限り、私はあなたと共に進み続けることはできません」と仰せられるでしょう。神は、ご自身がなそうとするいかなる種類の働きにも、実際性を要求されます。多くの弱さや多くの不完全さがあるかもしれませんが、もし神の御前で純粋性、実際性、公明性があり、そこでは霊が透明で純粋なら、神は御業を進めることができます。しかし、私たちが何かを内側に封じ込め、抑え、神の御前で完全に公明でなくなり始めるやいなや、御業はやんでしまいます。透明性を意味する光は、神の都の建造に必要不可欠です。なぜなら、この都の究極的目的は、神ご自身のあの栄光を輝き渡らせることだからです。神には変化も、回転によって投じられる影もありません。これは、神は信頼できることを意味します。

主は私たちをそのようにしてくださいます。

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