T・オースティン-スパークス
「御座に座す方が言われた、『見よ、私はすべてのものを新しくする!』。」(黙二一・五)
「……それは彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造するためです……」(エペ二・一五~一六)
「誰でもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。」(二コリ五・一四~一七)
「……その体を夜通し木に残しておいてはならない(中略)木にかけられる者は、神に呪われるからである。あなたはあなたの地を汚してはならない……」(申二一・二三)
「……人々はこの方を木にかけて殺しました……」(使一〇・三九)
「キリストは(中略)私たちのために呪いとなって」(ガラ三・一三)
「……世の基が据えられた時から屠られていた小羊」(黙一三・八)
「……世が存在する前に、私があなたと共に持っていた栄光」(ヨハ一七・五)
「……永遠の契約の血による」(ヘブ一三・二〇~二一)
これらの節はみな互いに関係しあっており、「見よ、私はすべてのものを新しくする」という御言葉によって結ばれています。
その第一段階は神の予知と関係しています。私たちが読んだ節のいくつかは、「世が存在する前に」起きたことについて述べています。イエスはご自身について、「世が存在する前に」御父と共に栄光を持っていたと言われました。小羊は「世の基が据えられた時から」屠られていました。
神は、予知により、贖いの働きの必要性をご覧になりました。そして、新創造の基を据えられました。神は究極的に完成された贖いの結末をご覧になりました――この贖いは私たちの主イエス・キリストの十字架を通して成就されました。この御方は、神の御旨にしたがって、世の基が据えられた時から屠られていました。つまり、新創造の基が据えられる前から屠られていたのです。
ヘブル一三章には「永遠の契約」の血について記されています。これは「未来」の永遠ではありません。この言葉は過去、私たちの観点から見た過去を指し示しています。神にとって過去と未来は同じようなものだからであり、永遠の現在だからです。しかし、御言葉――それは私たちのために記されており、私たちの限界を考慮に入れています――は私たちに次のことを示したいと願っています。すなわち、神の予知により、永遠の契約の血がすでに備えられていたのです。その後、この被造物が生じました。それは裁かれた世の混沌状態の中から現れました。「それはとても良かった」のです。その後、堕落が起きました。罪を通して悪しき者が優位に立ち、世の歴史が暗闇と人の不幸の歴史となるようにしました。今や被造物は贖い――「神の子らの現われ」――を待っています。
これは私たちを神の御旨の第二段階、すなわち人の子の十字架に導きます。彼にあって、同時に、新創造が現れます。一方において旧創造は裁かれ、私たちの代表である方にあって確かに終焉に達しました。私たちの主イエス・キリストにより、すべてが死にました。他方において、彼は復活であり命です。「死者の中から最初に生まれた方」です。しかし、この新創造は旧創造のようではありません。新しい天と新しい地は別の体制に属します。私たちは今、「視覚によってではなく信仰によって」生きています。それは霊的な世界であり、まったく新しいです。すべてを含む意味で新しいのです。
第三段階は黙示録二一章で私たちに示されています。「見よ、私はすべてのものを新しくする」。これは究極的に完成された新創造です。それはキリストの十字架の究極的産物としての霊的被造物です。この霊的被造物はその性質にふさわしい形を取ることになります。すなわち、新しい天と新しい地です。
神の御計画のこれらの三段階は、神の御言葉の中にとても明確に示されています。しかし、今、中心的事実に向かうことにしましょう。すなわち、すべてのものが新しくなる基礎は十字架であるという事実です。
十字架には二つの面があります。それは旧創造の終焉と新創造の登場を表しています。
今、神が新しい働きを開始される地点について見ることにしましょう。確かに、私たちの主イエス・キリストの十字架には、言わばこの被造物全体が崩壊した瞬間がありました。霊的に私たちはそれについて創世記冒頭で地の状態に関して告げられています。「地は荒廃し、また空虚であり、そして暗闇が深い淵の面にあった」。これは堕落の結果でした。それは裁きを意味しました。私たちの主イエス・キリストの十字架のもとに来て、九時まで続いたこの暗闇を再び見て、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか?」と彼が叫ばれるのを聞く時、私たちは「今はこの世の裁きの時です」と彼が言われたとき何を言わんとされたのかを理解します。人の子である彼にあって、神は堕落した状態にある被造物と、悪魔の働き全体を裁きの下にもたらされました。神はその代表たる方において、それを放棄・拒絶されました。この恐ろしい裁きが一人の人の上に降りかかりました。一人の人が全体の代表となったのです。
十字架上のイエス・キリストは神の裁きの下にある全被造物を表しています。神は彼にあって全世界の罪を視察されました。全被造物は死の中へと沈んで行きました。神は御顔の光を御子から遮られました。この被造物のすべての罪が、一人の人の心を通して探られました。「なぜ私を見捨てられたのですか」という彼の叫びに対する答えは、事実上、「世の罪があなたの上にあるからです。滅ぼされるべき悪魔の働きのためです」というものでした。使徒パウロは言います、「一人の人がすべての人のために死なれました。ですから、すべての人が死んだのです」。彼の十字架においてこの世全体が終わらされたことを私たちは知っています。「古いものは過ぎ去りました」。
しかし、私たちはこれを自分の心で理解しなければなりません。私たちはこれを見なければなりません。天然の心はこれを知ることはできません。天然の人の知恵は、ヤコブによると、悪魔からのものです。今日、悪魔的知恵が働いていることがわかります。神が私たちに光を与えて下さるときだけ、私たちは彼の光の中で物事を見ることができます。その時、天然の人が実際にはいかなる者なのかを私たちは見ます。私たちの罪深い性質に対する神の怒りの啓示として十字架を見ます。そして私たちは生来、神が放棄されたこの世に属しているため、それゆえ、イエス・キリストの十字架が私たちの生活の中に銘記されなければなりません。生来の私たちは十字架の裁きの下に来なければなりません。私たちの生活が神の怒りの下に来ることがないように、私たちは絶えず自分自身を否まなければなりません。私たちは神が拒絶されたものによって神に仕えようとはしません。神は人の知恵を拒絶されました。神はそれをその奉仕の中に許されませんし、私たちからの他の何らかの「能力」も許されません。神が用いることができるのは、新創造から直接出ているものだけです。
ですから、私たちはとても注意深くなければなりません。この問題について絶えず心を探る必要があります。何と容易に天然の人からのものが潜り込むことか。何度も何度も私たちは――最善の動機で――奉仕して事をなそうと欲します。しかし、自分には何もできない所、何もしてはならない所、神が私たちの中ですべてをなさなければならない所、新しい命の力によって新しい務めを導入しなければならない所で、そうしようと欲するのです。キリストの十字架のすぐそばに居続ける必要があります。この天然の人を十字架上に保つことを、聖霊は許されなければなりません。それは、すべてのものが私たち自身からではなく、真に「神から」発するようになるためです。
神の働きにおいても裁きの下に至るおそれがあるというのは、恐ろしいことではないでしょうか?神の呪いの下にある力によって、私たちの能力の力により私たちが生み出すものによって、神に受け入れられる生活を御前で送ることは不可能です。申命記には、木にかけられる者の体を「夜通し木に残しておいてはならない。必ずその日の内にその人を埋めなければならない。木にかけられる者は、神に呪われるからである」とあります。ガラテヤ人への手紙でパウロはこの御言葉を、「私たちのために呪いとなられた」キリストについて述べたものと解釈しています。夜通し木にかけられている者は全土を汚染します。私たちの主イエス・キリストは、全被造物の代表として、もし夜通し十字架上にとどまっていたなら、全地を汚染していたでしょう!神の御言葉の中にこれより恐ろしい思想はありえません。これは何と私たちに、神に見捨てられたこの被造物の恐ろしい状態を明らかにしていることでしょう。それはあまりにも呪われているので、古い性質のものはみな、何の例外もなく、その代表としてすべてのもののために呪いとなられた方によって、放棄され、拒絶され、除かれます。
新創造の必要性、絶対的新創造の必要性が分かるのはここだけです。すべてが新しくならなければなりません。神の御言葉は「見よ、私はすべてのものを新しくする!」と告げています。神はイエス・キリストを死者の中からよみがえらせました。また創世記に戻ると、「地は荒廃し、また空虚であり、そして暗闇が深い淵の面にあった」とあります。神は「父の栄光を通して死者の中からよみがえれ!」と言われました。神は御子を死者の中からよみがえらせました。神は御子を「死者からの初穂」として示されました。復活するのは新創造です。キリストにあって私たちも新創造です。「すべてが新しくなりました」――まぎれもなく、これは真実です。
「しかし、すべては神から出ています」。すべては新しくなります。私たちの知恵は新しい知恵です。私たちの力は新しい力です。私たちの心は新しい心です。私たちの能力は新しい能力です。すべてが新しくなります。それは私たちの内におられるキリストです!
私たちは次のことに注意するよう大いに努めなければならないことを、私は新たな方法で理解します。すなわち、私たちは自分自身の力から何も行ってはならず、神がすべてを行わなければならないのです。私自身の心の働きを覗いて見ると、そこには私自身の思い、私自身の強い願い、心と意思の強い情熱があります。しかし、自己を恐れる恐れの中に私を保って下さるよう、私は主に求めます。この被造物全体、アダムにある私はすべて呪われているからです。それは神がそれを放棄された所に横たわっています。神はそれを用いることができません。すべてが今や神からでなければなりません。
この問題に関してもっと心を探るよう、私はあなたに勧めたいと思います。ああ、神聖な能力を持つ素晴らしい新創造があるのです!そこには素晴らしい可能性があります。なぜなら、それらは私たちのための神の可能性だからです。神の側からはすべてが可能です。すべてが可能である立場に私たちは立たないのでしょうか?すべてが神からである所に居ることは可能です。彼がすべてを開始し彼がすべてをなさいます。進み出て、神が定められたキリストにある私たちの立場――彼にある神の豊かさ――に行こうではありませんか。ですから、私たちは十字架のもとに行き、それが意味するところを両面から受け入れなければなりません。私たちはイエス・キリストの十字架のあの恐ろしい面――十字架の呪い――を見なければなりません。すなわち、彼は私たちのために十字架に付けられたのであり、私たちも彼にあって十字架に付けられたのです。私たちは新しい生活の中に旧創造からの何ものも持ち込もうとはしません。なぜなら、それは常に神の裁きの下に至るだろうからです。私たちの働きがすべて焼かれなければならない日が来るかもしれません。主のためになされたことと、私たちの内におられる主からのものとの間には、ある大きな違いがあります。「木にかけられる者は、神に呪われる」。キリストと共に私たちはその木にかかりました。そして、神は彼の十字架において私たちを見捨てられました。しかし、それで一巻の終わりではなく、ずっと大きなもの、まったく新しいものの始まりです。これを再び言わせて下さい。古いものが過ぎ去らない限り、新しいものの中に入れないのです。「見よ、私はすべてのものを新しくする」!
「すべてが新しい!」と私たちに関して実際に言える地点に、どうか主が私たちをもたらして下さいますように。そして一瞬ごとに主が私たちをその中に確立して下さいますように。どうか十字架が私たちの霊、魂と体、思い、心と意思の中に働いて、私たちの生活のすべての領域に銘記されますように。どうかそれが私たちの言葉と働きの中に働きますように。それはすべてが彼の十字架によって統治され、神の栄光と私たちの主イエス・キリストの豊かさのために開かれた道が設けられるためです。
ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。