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純金の通り

T・オースティン-スパークス

初出:"Toward the Mark" 雑誌 1975, Vol. 4-5. 原題:"The Street of Pure Gold".
翻訳者:オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー

「また彼は、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。それは神と小羊の御座から、通りの中央を流れていた。」(黙示録二二・一~二)

使徒ヨハネは黙示録二一章で聖なる都の全体像を与え、次に自分に示されたことを語りました。それによると、その都は一本の中央通りから成っており、その純金の通りの中央を一本の川が流れ下っていました。この幻の霊的意義は、キリストの完全な一つ(unity)であり、この一つはキリストが中心的地位を占める麗しい一つとして現されます。キリストとその肢体たちを一つにするこの霊の交わりの一つは、神の傑作です。神の御計画は、この都によって神の宇宙の全領域に供給することです。諸国民はその光の中を歩み、その命の木の葉から健康を得ます。神の御旨は、教会の中心から――キリストは教会の中心です――諸国民に祝福を与えることです。

そうである以上、この一つの要素は決定的原則であること、そして主は今それを生み出して維持する働きをしておられることを、私たちは信じなければなりません。神の最終目標は将来のことですが、それはきっと現在の上にも光を投じているにちがいありません。この栄光の都が突然視界に入って来るとき、それは「青空から出て」来たかのように思われるかもしれませんが、実際は、霊的に常に到来しているものの最終的出現にほかなりません。「私たちはみな、自分の内に発達させられつつあるキリストの霊的価値を、あらかじめ上に送っているところです」という感覚があります。花嫁のたとえ話でいうと、その衣装はいま用意されているところであり、キリストの卓越性、麗しさ、美徳が紐のように花嫁衣装の生地に縫い込まれているところです。その時、私たちはキリストを「着る」でしょう。なぜなら、私たちは今、キリストを着ることを学んでいるからです。同じように、この天の都の材料はいま用意されているところのように思われます。その各部は確かにキリストの何らかの面を表していますが、それらのキリストの表現は私たちの内にいま形成されねばならないことを理解する必要があります。その究極的完成を見るのは先のことですが、この都はいま霊的に形成されているところなのです。

神の新しい宇宙の首都としての教会の永遠の召命に関して究極的に言えることは、地上における今の教会の在り方にも光を投じます。永遠においては、神の栄光は絶対的一つの基礎に基づいて供給されます。第一に、これは主ご自身との一つを意味します。御子において示される神の御思いとの一つによってのみ、教会は神の永遠の御計画を成就することができます。一本の通りとその中央を流れ下る一本の命を与える川によって描写されている、神聖な一つの特徴を熟慮するだけでは不十分です。「これはこの地上にいる自分たちにとって、何を意味するのだろう?」と私たちは自問する必要があります。その意味は確かに次のようなものです。すなわち、自由に流れる命の供給を可能にする、この基本的な霊の一つが神の民の間になければならないのです。言葉使いや手続きの同一性にこだわる必要はありません。たとえ外面的事柄に関して同じだったとしても、依然として霊がひどくこわばっていたり、心がばらばらなこともありえます。また、たとえ人々が重要でない事柄に関して異なっていたとしても、キリストにある交わりのあの重要きわまりない一つが依然として存在する場合もありえます。

サタンはこの点を重視しています。そして、キリストのためになされる奉仕の力や価値に対して、戦略上必ず常に敵対します。それは、分裂を生じさせてそれを永らえさせることによってです。サタンは一つについて話すことは気にしません。彼はどういうわけか、外面的性格を帯びた教理的合意にはあまり反対しません。しかし、内側深くに造り込まれた一つに対して、積極的にしつこく反対します。なぜなら、そのような証しの強力な衝撃力を知っているからです。ですから、通りを流れ下るこの川の絵図は、私たち全員に対する課題なのです。もちろん、教会全体に対する課題でもあります。なぜなら、御霊の一つは局所的なものではなく、すべてを包括するからです。しかし、この課題の実際的衝撃力は、私たちのいる地元や集会の水準でも感知されます。この川はそこに流れているでしょうか?もし流れていないなら、この欠け目は根本的不一致のせいではないでしょうか?そこには王の大路の代わりに、多くの通り、脇道、私道があるのではないでしょうか?

この課題は最終的に各個人に向かいます。なぜなら主イエスは、彼を信じる生き生きとした信仰の結果、生ける水の川々が流れ出るようになる、と約束されたからです(ヨハネ七・三八)。ですから最初の一つは、私たち自身のキリストとの個人的交わりの一つでなければなりません。自分の教会について考え始める前に、私たちは自分自身の生活を省みて、自分たちから周りの人々に御霊が流れることにより、彼らが新鮮にされて命を得ているかどうかを尋ねる必要があります。水晶のように透明な川が流れている純金の通りについて、「それは将来成就されるものであって、現在成就されるものではない」と考えるなら、いくらその美しさについて黙想しても不十分です。ですから私たちは、永遠の栄光に関するヨハネの予見を感謝しつつ享受する一方で、それが今ここで私たちにとって何を意味するのかを問う方がいいでしょう。

「彼は私に示された……」とヨハネは言うことができました。彼は自分の見たことを報告しました。しかし、私たち各人がその御言葉を見聞きするとき、「彼は私に示された……」と感謝して言えるとはかぎりません。主が最初に「来なさい、わたしはあなたに示そう……」とヨハネに言われなければ、ヨハネはこれらの天の驚異を決して思い描けなかったでしょう。それと同じように、主ご自身が私たちに啓示してくださらないかぎり、私たちはこの事柄の霊的意義を悟ることはできません。私たちは全きへりくだりの中で、「彼は私に示された……」と言えなければなりません。しかし、もしそう言えるなら、もし私たちが本当に啓示を受けたなら、私たちの見たことは私たちの生活の上に途方もない実際的影響を及ぼすはずです。もしそれが自分の生活の中で実際に表されていないなら、どうして「自分は霊の交わりのこの素晴らしい真理を見た」と正当に主張できるでしょう?その原則がいま私の内に少しも働いていないなら、どうして聖なる都、小羊の天的な妻について語れるでしょう?私たちが見ているかどうかの試金石は確かに、私たちに何が起きるか、また私たちの内に何が起きるかということです。結果を伴わない神の効果的示しもありうる、とは私は信じません。その力を少しも経験していないのに、聖なる真理に関する教えを蓄えることは、確かに危険きわまりないことです。おそらく、それらを流布することですら、危険きわまりないことです。教えは益を与える以上に害を及ぼすおそれがあります。なぜなら、教えは人々を欺いて、「自分はそれについて教わっているから、その恩恵にあずかっている」と思わせかねないからです。私たちは、自分が知っているつもりの知識を、それが実際に生み出す実証可能な効力によって、つねに試さなければなりません。

聖書の最後の章では、その最初の章と同じく、御霊と命の二つが強調されています。創世記によると、神の働きの最初の現れは、神の霊が覆うことでした。次に、たえず新しく、ますます素晴らしくなっていく、命の表現が続きます。黙示録の最後の章に来ると、花嫁と共に「渇いている者は来なさい。欲しい者は、命の水を値なしに飲みなさい」と呼ばわっておられる御霊を見ます。ですから、またもや御霊と命です。ある意味において、これは全聖書に対する鍵です。旧約聖書では、御霊は水、火、油といった多くの方法で象徴されていますが、常に何らかの方法で命の問題と関係しています。新約聖書では、これは遙かにはっきりと強調されています。最後の書、究極的完成の書の最も顕著な特徴は、御霊と命です。この書は、「私は主の日に霊の中にいた」というヨハネの言葉をもって始まります。次に、諸教会への手紙で七回にわたる呼びかけがなされますが、その呼びかけの対象は、諸教会の間で御霊が語るべきことを聞こうとしている者たちです。それとまさに平行して、命の問題があります。ヨハネは御霊の中で、復活の命の見地から、生ける方である主イエスを見、その御声を聞きました。御霊の七重の豊かさが述べられているところでは、その火のともしびは、会得すべき至高の経験、命の豊満を求めている諸教会に向けられていることがわかります。これらの信者たちが教会の目標に向かって前進しているかどうかの真の試金石は、「人々はあなたを通してキリストに出会っているでしょうか?」ということでした。主の衣から力が流れ出たように、他の人々に力が流れ出ているでしょうか?この地上における私たちの使命は、主の命の証し人になることであり、この命を私たちの周りの人々に分け与えることです。個人にせよ、教会にせよ、命の中心地となるよう召されているのです。

諸教会の中の一つの教会は、「あなたは生きているというのは名だけで、実は死んでいる」(黙示録三・一~三)と言われました。主にとって名は無意味です。その名の響きがいいかどうか、聖書的かどうか、長い伝統があるかどうかは、もし主ご自身の命と愛が私たちを通して流れ出ていないなら、主にとって何の益もありませんし、主の目に何の価値もありません。この命は一つの中で現れることに疑問の余地はありません。聖霊が主の民の間で真にご自身の道を進まれるとき、彼らを分けることは不可能です。永遠においては、一本の黄金の通りがあるでしょう。どうか今この時も、主の愛が主の民である私たちの間で勝利しますように。そして、この命の川が解き放たれて、私たちの周りの渇いている魂に命をもたらしますように!


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