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セオドア・オースティン-スパークスの生涯と伝道

ランバートさんが (Lance Lambert)

原題:"The Life and Ministry of Theodore Austin-Sparks".
このメッセージは、ランバートさんが、中国語を話す聴衆に向かって、通訳を介して行ったものです。語られた言葉は、一字一句、余さずに記録されています。.メッセージは録音ページで聴くこともできます。


ピリピ人への手紙から、数節を読みたいと思います。ピリピの第一章、二十一節から始めます。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。(ピリピ一・二十一~二十四)

続けて、祈りの言葉を持つことにしましょうか。


主よ、私たちみなが今宵、あなたの臨在の中にこうしていられることを感謝します。あなたがくださった油注ぎに、あらためて感謝し、今夜、信仰によって、この油注ぎの中に立つことを願い、また、こうして話し、通訳を通して聞けることにも感謝します。主よ、どうか、この時間をあなたご自身で満たし、主イエス様に栄光を帰すために用いてください。尊い主の御名によってお祈りします。アーメン。

さて、私は、セオドア・オースティン-スパークス兄弟の生涯と伝道活動について話すようにご依頼を受けました。そこで、はじめに彼の生涯について少し話し、それから、彼が伝道活動で力を入れていたこと、次に彼の生涯の特別だった点について語りたいと思います。

スパークス兄弟は一八八〇年代、スコットランドのダヌーンという街で生まれました。[編集者注:彼はスコットランドではなく、ロンドンのワンズワース地区で生まれている。]彼は、スコットランド人の母と、イングランド人の父のあいだに生まれましたが、自分では常に、スコットランド人であると考えていました。彼の父は興業主で、スパークスさんは、文化、劇場、音楽会などと深いなじみのある家に生まれました。お父さんが、主イエス様を深く経験していたのかは定かではありませんが、お母さんは、真摯に神を信じる女性でした。彼女は主を知っており、祈りの女性であって、人生を百パーセント、主イエス様に捧げていました。彼女は、イングランドに古くからある教会、イングランドのチャーチ・オブ・イングランド、そして、スコットランドのチャーチ・オブ・スコットランドの『アーヴィング派』に属していました。

『アーヴィング派』と呼ばれたこの一派は、エドワード・アービング兄弟の働きに強く影響され、祝福された人たちでした。エドワード・アービングは、このカリスマ派の生みの親であり、実際にそう呼ばれていました。彼は、教会は主イエス様のみからだであると信じていました。彼は、使徒たちを信じ、御霊の贈り物を信じていました。また、自分で『聖霊のバプテスマ』と呼ぶ経験を重視していました。この運動は英国全土、イングランド、そして、スコットランドで一八六〇年代か、一八四〇年代に始まったものです。スパークスさんが育った家では、母親がよく、祈り会を開いていました。それは、神のみことばとは神のみことばであること、そして、みことばがすべてを支配する最終的な権威であることを信じる家庭でした。また、主の再臨が近いことを信じる家でもありました。この母は、スパークスさんに深い影響を与えました。

スパークス兄弟は、十代から主のもとに集い、主のもとに身を寄せたときから、自分を百パーセント、主にささげていました。彼は、信者が受ける洗礼の真実を目の当たりにし、その結果、自分も洗礼を受けて、スコットランドの教会を後にしました。彼は、バプティスト教会と会衆派教会で叙任を受けて聖職者となりましたが、これは両方の宗派で承認され、叙任された聖職者であったことを意味します。

彼は、キャンベル・モーガン博士の若い弟子のひとりとなりました。キャンベル・モーガン博士は、おそらく、二十世紀前半、英国と英語圏で活動したもっとも偉大な聖書の教師の一人です。モーガン博士は、ロンドンにあるウェストミンスター・チャペルの司祭でした。また、当時、博士のもとには若い司祭たちがいて、聖書の学びでは、たくさんの奉仕に参加していましたが、この学びは後に多くの本として出版されました。スパークスさんは、この若い司祭の集団で、もっとも有能な者の一人だったので、大会で話す説教者として、英国全土で参加を求められ、とくに聖書を教える話し手として、各書の概略、聖書全体の概略、聖書の全体像などを教えるようになりました。これは、それまでになかったことで、彼は、多くのところから呼ばれるようになりました。

オナー・オーク・バプティスト・チャーチで祭司として働いているとき、そこで、その教会全体に大きな変革がもたらされました。当たり前のキリスト者たちが、次々と生まれ変わってゆきました。教会の主事や多くの助祭たちが、一人、また、一人と主を見出し、このことが教会を完全にひっくり返したのです。

当のスパークスさんは、大会の話し手として国中で引く手あまたで、ケズウィックにも招へいされて、最終的には説教者になるよう見込まれていた若手のひとりであり、さらには、どこよりも盛況なバプティスト教会の牧師でありながら、自分の人生には何かが大きく欠けていると思うようになりました。彼は、自分では本当に経験していないことを述べ伝えていると感じていたのです。自分が生まれ変わったことには、何の疑いも持っていませんでした。神が自分を救ったことにも、疑いはありませんでした。神が自分を正しいものと認めたことも確かでした。聖霊が聖霊であることにも、疑いはありませんでした。キリストがキリストであったことにも、何の疑いも持っていませんでした。しかし、彼自身の心の内側では、自分の経験ではないことを説教で語っている、すなわち、彼は多くを伝えながらも、自分のものは何も持っていないと感じていたのです。

さて、スパークスさんは、生来、百パーセントでなければ気がすまない性質の人でした。ふたつのあいだで釣り合いを保つ人ではなかったのです。黒か、白かのどちらかであり、灰色はありませんでした。彼の内側で生まれた非常に大きな葛藤は、次第に強くなっていきました。彼は、自分が落伍者であり、聖書で読んだことが自分の経験になっていないと感じるようになりました。そして、そのすべてがある日、表に噴き出したのです。

この日、彼は妻に言いました、『僕は、これから書斎に入る。何が起こっても、誰も入って来ないでほしい。なんにせよ、はっきりとした結論が出るまで、この書斎から出てこないつもりだ。』書斎に入っていったとき、彼は、主が新しいかたちで彼に会うか、自分が聖職を辞するか、どちらかにする決意でした。自分ではどうにもできないところまで来ていました。彼は、その日のほとんどを静かにすごし、それから、ローマ人への手紙を読み始めました。何も起こりませんでした。彼は、この手紙をよく知っていました。何度も繰り返して、この手紙を教えてきたからです。彼は、この手紙の概要を教えたこともあって、よく知っていたのですが、ローマ書の六章に来ると何かが違っていました。彼自身のことばによれば、それはまるで、天が開けて、光が彼の心の中を照らしたかのようであり、生まれて始めて、自分がキリストともに十字架につけられたこと、そして、聖霊が彼の中と上にいて、主イエス様の性質を作り出そうとしていることを理解したのでした。このことが、セオドア・オースティン-スパークスに革命的な変化をもたらしました。自分でよく言っていたように、世界中に拡がった宣教活動のすべて、彼が持っていた権威と影響力は全て、この日に生まれたのです。

書斎から現れたとき、セオドア・オースティン-スパークスは、違う人間になっていました。彼は、キリストを述べ伝え始め、主イエス様を心から讃え始め、そして、教会は、あらゆる面で新しい経験へと変わってゆきました。何よりもまず、彼にはキリストの十字架を説明することができなかったのですが、その後、しばらくすると、彼は、自分で『十字架の道』と呼ぶものを教え始めました。彼が、ジェシー・ペンルイスと連絡を取りあうようになったのは、この頃でした。

神は、ペンルイス女史を前世紀から今世紀初頭におけるもっとも優れた教師の一人として育て上げたのです。彼女もまた、主の十字架と主の御霊の経験をしており、また、彼女は主に用いられ、英語圏のあらゆる国々で、主の僕たちを主イエス様の新しい経験へと導いてきました。もちろん、皆さんも関心をお持ちでしょうが、マーガレット・バーバーも、ペンルイス女史を通して、偉大な祝福へと入った人です。[マーガレット・バーバーは中国へ渡った英国人の伝道者で、ウオッチマン・ニーもよく語っています。このことにふれたのは、この講演が中国の聴衆に向けられたものだったからです。]さて、ペンルイス女史には、スパークスさんが、神が自分に与えた全ての責務を引き継ぐべき人物のよう見えました。そして、スパークスさんは、いわゆる『勝利者の運動(Overcomer Movement)』において、大いに愛され、人気のある説教者、教師となりました。

しかし、スパークスさんのこの経験のために、国中の全ての説教壇が開かれるどころか、ほとんどの説教壇が彼に閉じられてしまいました。人々は皆、スパークスさんをひどく恐れるようになりました。誰もが、スパークスさんに何かとても異様なことが起こってしまった、彼はとても危険で、不安定で・・・どこかがおかしいと感じました。そこから、キリスト教世界で、スパークスさんに対する反目が広がり始めたのです。

それから、彼が牧師をしていたバプティスト・チャーチに大きな危機が訪れました。この頃までに、ほとんど全ての助祭たちが信者になっており、しかも、ただの信者ではなく、内住のキリストと十字架の道を現実に経験するところまで導かれていました。当時、一九二〇年ごろか、一九二〇年代の半ばのことですが、世界バプティスト連盟は、『バプティスト会員を増やす年』と呼ばれる活動を立ち上げました。ところが、スパークスさんが牧師をしていたこのバプティスト・チャーチでは、バプティストの会員を増やすことには、誰も関心がありませんでした!より多くの人々を主イエス様の元に導くということであれば、彼らも百パーセント、賛同していたでしょうが、バプティスト教会員を増やすこととなると・・・彼らには、まったく喜びが感じられなかったのです。そこで、彼らは、バプティスト連合に手紙を書き、『バプティスト会員を増やす年』には加わらないという意思を伝えました。これに対し、バプティスト連合の答えはこうでした、『私たちには、教会の所有物を譲渡する権限、あなたたちが住んでいる家を譲渡する権限がある。私たちと足並みを揃える気持ちがないのなら、出て行ってもらうしかない!』こうして、衝突が起こりました。スパークスさんは、それから一週間のうちに追い出されたのです!その時点で、彼には四人の子供がいたと思いますが、彼は家具ごと路上に放り出され、この教会は敷地から締め出されることになりました。

このころ、ある立派な肩書きを持った女性がいて、この女性はスパークスさんの働きを通して大いに祝福されてきた方であり、インドで宣教師として主に仕えていたのですが、当時、ちょうどイングランドにいた彼女は、ある大きな男子学校がオナー・オークの丘の上にあって、その建物が使われていなかったことを聞きました。そして、彼女は、その土地を建物ごと買い取り、それを教会に贈ったのです。こうして、ここにオナー・オーク・クリスチャン・フェローシップと会議場が誕生しました。

この会議場で、年に三、四回、大会が開かれるようになり、その大会には英国全土、そして、英語圏の国々からたくさんの人が集まって来ました。こうして、一地方の活動から始まったスパークスさんの伝道は、国全体に及ぶ働き、国際的な働きへと広がってゆきました。

一九三七年から一九三八年のこと、ウォッチマン・ニー兄弟がはじめて、スパークス兄弟との接触を持ちました。彼は、スパークス兄弟の伝道活動について書かれたものを読み、大いに祝福されていたのです。ニー兄弟は、そこに自分と同じものの見方、考え方があると信じていました。そして、一九三七年、彼は、ただスパークス兄弟に会うという目的のために、英国とスカンジナビアを訪れました。彼は、オナー・オークに来て、スパークス兄弟と会い、交わりを持ちました。スパークス兄弟は生まれつき(後で説明しますが)、きわめて英国的な性格を持った人物であり――非常に超然としていて、打ち解けにくいところがありました――実際に交わりを持つまで、ウォッチマン・ニー兄弟を二日間、待たせました。それは、すばらしい時間でした。

ウォッチマン・ニー兄弟を欧州に招待した団体、エクスクルーシブ・ブレザレンは、ウォッチマン・ニーがオナー・オークに行ったことに恐れを抱きました。そして、二ー兄弟の行動に異議を述べた後、特別会合を開いて、二―兄弟との関係を断つことを決定しました。ことばを換えれば、この団体はニー兄弟を追放し、彼との交流を断ったのです。何年も後、私は、ウォッチマン・ニー兄弟との関係の解消を決めた会合に参加した兄弟の一人に会いました。その時は、彼も分かっていなかったのですが、私にこう言いました、『私はあれがエクスクルーシブ・ムーブメントの終わりだと感じていたよ。』そして、実際にそのようになったのです。

当時のスパークスさんは、もちろん、たくさんのすばらしい働きをしており、初期の大会の参加者たちは、驚くべき経験をしていました。私は、この経験をした多くの人たちと会っています。私は、ソーントン・スターンズ博士のことを覚えていますが、彼もまた、中国にいたマリー・モンセンを通して、実際に主を知るようになった人でした。彼は、伝道者として中国に赴いたのですが、彼は救われてさえいなかったのです!そして、マリー・モンセンを通して、彼は主を知るようになり、その時から、彼とその妻は――ご存知のように――ウォッチマン・ニー兄弟の同労者となりました。ソーントン・スターンズ博士によると、彼がこの大会のひとつに出かけたとき、ある会合の後で、主は彼を眠らせてくれなかったそうです。『一晩中』と、彼は言いました、『主は私と格闘しました。』それから、『ヤコブと同じように、太陽が昇った時、私は違う人間になっていたのです。』これと同じことが何千回と起こったとも考えられます!人々は主の御霊とキリストの十字架を、力強く経験をしました。それはただの説教ではなく、説教を通して何かが起こったのです。

それから戦争がはじまりました。第二次世界大戦によって大会は終わりを迎えました。ヨーロッパと全世界が動乱の中にありました。スパークスさんはスコットランドに移動して、もっとも近しい同労者であったパターソン兄弟を訪ね、オナー・オークに滞在しました。戦争が終わりに近づくと、彼らは行動を共にし、その時期は彼らの働きと奉仕の歴史の中で、おそらく、もっとも祝福された期間のひとつとなりました。一九四六年から、千九百・・・・おそらく、五十年か五十一年までのあいだ、また、非常に力強い大会が数回、開かれました。

さて、スパークスさんは、すでに述べたように、非常に打ち解けにくい男でした。あえて言うと、口数が少なく、必要なこと以外はほとんど話さない人でした。彼は、おおぜいの人たちと一時間も同席しながら、一言も発しないこともあり、何も話さなくても、本人は穏やかでしたが、他の人たちは落ち着かない気持ちになりました!つまり、誰もが、『彼はなぜ、しゃべらないのか?』といぶかったのです。彼はこのように実に変わった人物でした。彼はまた、非常に疑い深い人物でもあり、他人を容易に信用しませんでした。彼は、実に才能豊かな人で、容姿も秀でており、背が高く、見た目がよく、その振る舞いもすばらしいものでした。

パターソン兄弟はあらゆる面で違いました。彼はとても暖かみがあり、いつまでも語り続け、そして、尽きることなく語ることができました。誰でも、彼に話しかけることができました。彼は、誰をも愛したし、人を信頼したので、彼とスパークス兄弟が一緒にいると、実にすばらしい組み合わせとなりました。彼らは、まったく違っていながら、お互いを信頼していました。そして、このことから、働きと交わりの上で多くの問題が生じ、そのいくつかはスパークスさんの気性のせいでしたが、パターソン兄弟はいつも、人にスパークス兄弟のことを説明し、人々の思いをスパークス兄弟に説明していました。このように、とてもよい関係がありました。しかし、ある日、突然、パターソン兄弟は主のもとに旅立ち、彼の代わりになれる人は誰もいなくなりました。他の人たちが、代わりを努められないかと試みましたが、前と同じにはなりませんでした。このために、交わりと働きにおいては、長い不安と苦悩の時が始まることになりました。

さて、スパークス兄弟について、他にもお話したいことがあります。彼は、元気そうに見えましたが、実際には、健康上の問題でひどく苦しんでいました。彼は、外に向けては非常に控えめで、とても物静かな人だったため、心の内側に多くのことを抱えこんでしまったのだと思います。その結果、彼はある病状に苦しむようになり、胃の内膜の全体が潰瘍で覆われていることが分かりました。彼はひどい消化不良と痛みを抱えるようになり、また、いつも黄緑に近い顔色をしていました。彼が参加したもっとも大きな大会のいくつかは、彼の痛みと悩みが最大限に達したときに開かれています。その中のひとつ、今、『The Battle for Life』という本になっている大会では、彼は椅子に座ったままでした。

何年も後で、私がスイスでスパークス兄弟とある大会で同席したとき、一組の老夫婦がその場に現れました。彼らは、ドイツ人の宣教師でした。彼らは、およそ四十年ぶりにスパークスさんに会うことになりました。彼らは、ブラジルで主に仕えていました。そして、彼らがこの大会に現れたときのことを、今も忘れられないのですが、スパークスさんはドイツ語を話せなかったので、彼らは私に話しかけてきました。『この方がスパークス兄弟なんですか?』と、彼らは訊いてきました。『もちろん、この人がスパークス兄弟ですよ!』彼らは、『でも』と言いました、『彼は四十年前よりも、三十歳も若く見えます!私たちが彼に会ったときは、彼は、ひどく年とって見えたし、顔は緑色で、もっと痩せて、弱々しかったですよ。』スパークスさんは、胃の内壁をすべて除去し、全体を引っ張り上げて結び合わせ、それを新しい胃のようにするという最新式の手術を受けており、完治した後のスパークスさんは、同じ症状で苦しむことはなくなっていました。彼は、いつも気をつけていなければなりませんでした。

スパークスさんに向けられた敵意は、信じられないほど強いものでした!この敵意はキリスト者の輪のいたるところに広がっており、彼に反論する本が書かれ、彼を非難するチラシまで作られ、説教壇から彼を糾弾することばが語られ、また、ひどい問題を起こす人物、分裂を引き起こす者、間違いだらけの偽教師と名指しされました。スパークスさんについて広められた信じられないような話がたくさんあります。ある兄弟のことを覚えているのですが、合衆国から来たとてもよい兄弟が私に向かって、『どうして、スパークスさんと一緒に働くなどということができるのですか?』と言ったのです。『何の問題もありませんよ』と、私は答えました、『私には、彼の中にはキリストの他に何も見たことがないし、彼が神のみ言葉にないものを教えたり、述べ伝えるところを、一度として見たことがありません。』『えええ』と、彼らは言いました、『でも、彼には四人の妻がいるんですよ。』妻が四人?!お気の毒なスパークスさん!スパークスさんを知っている者からしたら、奥さんは一人で十分です。とてもあり得ないことで、まったくのお笑いざたです!私は、この兄弟に言いました、『スパークスさんの評判を傷つけたいなら、その手のことを言うのはおやめなさい。彼を知っている人なら誰でも、そんなことは大嘘だと気づきますよ。彼の権威主義的な気質や、疑い深い性質のことを語ったほうがいい。そんなことを話しても、彼の行く手を遮ることなんてできませんよ・・・・』(笑い)

スパークスさんのこの疎外感、あらゆる面で彼が味わったこの完全なまでの孤立は、スパークスさんが背負わされたもっともつらいものでした。毎年のように、彼はケズウィックに出かけました。そこで、演台の上から、『キリストにあって皆がひとつに(All one in Christ)』と語るのですが、それから、かつて一緒に働いていた人たちに近づいて、手を差し出すと、皆が背を向けてしまうのです。誰ひとり、彼と握手しようとしなかったし、話しかけもしませんでした。誰も、彼と一切、関わりを持とうとしなかったのです。こうして、スパークス兄弟は、これまで味わったことがないほど大きな困難と向かい合うことになりました。

オナー・オークでの交流の問題は大きくなってゆきました。大会が開かれることもなくなりました。皆さんも、スパークス兄弟が台湾に二度、行ったことを覚えているでしょう。最初の訪問では、彼は大感激していました。それは、非常に多くの人々が集まり、話を聞きたがったこと、また、彼らには敵意がなく、語られたことばを受け入れる気持ちを持っていたからです。このことで、スパークス兄弟は非常に大きな感銘を受けました。しかし、その後の二回目の訪問では、ウィットネス・リー兄弟とのあいだにあのひどい問題が生じました。

さて、スパークスさんの強さとは、すべてにおいて霊的な性質を持っていたことでした。彼の弱みは、その霊的な原理を地上の現実の中で表現することにありました。その弱さは、そのころ、議論されていた地域単位の伝道という大きな問題の上に現れました。スパークス兄弟が私に言ったことがあります、『地方教会というものは確かにありうる。』しかし、彼は言いました、『あの兄弟(ウィットネス・リー)のような教え方をしていると、それはバチカンと教皇がいる宗派のひとつのようになってしまう。そうして、終わりを迎えることになるだろうね。』残念ながら、彼が正しかったことが今は明らかになっています。まさしく、そのとおりのことが起こったのです。彼は言いました、『人は教会を手に取り、本来なら、私たちの主イエス様のみ体であり、神の右の座におられるかしらと結びついているはずの教会を、この世的なものにおとしめ、人間の組織にしてしまうこともあるのだ。』この分裂は多くの意味で悲劇的なものでした。もちろん、他にも非常に多くのことがありました。

スパークス兄弟も生涯の最後には、使徒パウロの最後の手紙、または、終わり近くに書いた手紙のひとつとよく似た状況になりました。使徒パウロはこう言っています、『アジヤにいる教会はみな、私を離れて行きました。』人生の最後に来て、スパークスさんは一人でした。最後までそばにいた人は、本当に僅かでした。終わりのときが近づくと、自宅があったオナー・オークから出て行くと言い始めました。家はまだ、あったのですが、自動車でリッチモンドにあった娘、エリザベスの家に、連れて行ってくれるように、彼は強く求めました。そして、その家で彼は主の元に旅立ったのです。

さて、スパークスさんの生涯に、非常に強い影響を与えた人たちがいます。その一人は、キャンベル・モーガン博士です。この博士は、スパークスさんに、聖書の構成について、こういってよければ聖書の技術のことで非常に多くを伝えた人だったと思います。F・B・メイヤー博士もいました。F・B・メイヤーはスパークス兄弟にとって非常に大きな存在でした。彼は、本当にたくさんの面で、スパークスさんを、それまでよりずっと深く、主に近づけました。それから、ペンルイス婦人がいました。彼女もスパークスさんに非常に大きな影響を与えています。そして、A・B・シンプソンもいました。シンプソンさんの聖歌は、ここでもたくさん歌われていますね。スパークスさんは、アメリカで活動したあらゆる説教師、若い頃に出会ったすべての説教師の中で、A・B・シンプソンは誰よりも霊的で、誰よりも力強かったとよく言っていました。これも興味深いことです。

私のスパークスさんという人物の見方(あまり多くを言い過ぎないようにしますが)、私が思うスパークスさんとは、霊的な荒れ野で聞こえる、孤独で預言的な声というものです。ヨーロッパ、スカンジナビア、英国――基本的には、一九二〇年から一九六〇年における英語圏の国々――を取り上げれば、まさしく荒れ野でした。ほとんど何も起こっていません。もちろん、それは、二つの世界大戦があったおそろしい動乱の時期であり、また、教会の制度化と伝統化が進められた時期でした。スパークス兄弟の声は、あたかも神の民を現実に引き戻そうとする声、神の民を純粋さへと引き戻す声、神の民を主イエス様に引き戻す声、預言者の声のようでした。

非常に興味深いことに、当時、スパークスさんが好んで使った言いまわしの多くが、ほとんど彼だけが口にする、独自のものでした。たとえば、彼は、『からだ』、主イエス様のみからだについて語りました。私はこう思ったものでした、『からだ?主イエス様のからだ?いったい、何を言っているんだろう?誰も主イエス様のからだのことなんか話そうともしない!そんなことを語る人はどこにもいない!』――それから、彼はこう言ったのです、『それが教会です。私たちは教会なのです!』教会とは、傘を起き忘れたり、手提げかばんを無くするところです!教会をキリストのからだと理解する人などいるでしょうか?今では、この『みからだ』ということばは、世界中のどこでも聞かれるありふれたことばとなりましたが、これはおもにカリスマ派の影響です。それでも、何か、実に驚くべきことが起こったのです。

あるいは、権威(authority)、服従(submission)といったことばを取り上げて見ましょう。権威や服従について考えたり、話したりする人が、それまでいたでしょうか?ああ、今では、いたるところで聞かれますが、もちろん、間違えて使われることもあります。『み体なるいのち(body-life)』についてはどうでしょう?み体なるいのち!『み体なるいのち』などということを、語った人がいたでしょうか?この『み体なるいのち』は、スパークスさんが好んで使った表現のひとつでした。『私たちは、み体なるいのちを経験していますか?』これも今では、どこでも使われることばです。他に、この短いことばを思いつきます、『関係性(relatedness)』、すなわち、お互いへと属すること、お互いと関わり合うこと、キリストの一部分であり、他の誰かの一部分であること。実はこれも、とても奇妙なことと受け止められてきました!このようなことを語る人は誰もいなかったのです。

ご存知のように、キリスト教徒の世界では、回心について語り、聖書の学びについて語り、祈りについて語り、証し人となることについて語り、伝道活動の困難と召しについて語ってきました。そして、もっと高いところへ進めば、勝利の生活について語ってきました。それだけでした!あなたたちは、教会について語らなかったし、主のみ体について語ることはなく、権威について語ることはなく、関係性についても語ることもなかったのです。こういったことは、全く知られていませんでした。私が言おうとしていることはこうです。このような概念は、一九六〇年から世界中に広がってゆきました。スパークス兄弟が、ただひとりだけの、預言的な声だったのです。そして、すべての本物の預言者たちと同じように、彼は一人ぼっちで、孤立し、反論を受け、基本的には拒絶されていたと私は思います。

さて、彼が伝道活動の中で強調していることはなんでしょう?彼の著作の中から五冊を取り上げます。一冊目は、『十字架の普遍性と中心性(The Universality and Centrality of the Cross)』です。スパークスさんにとって、すべては十字架とともに始まり、十字架を通ってきたのであり、そして、十字架を離れて守られるものは何もなかったのです。彼の伝道の中でも、これはもっとも力をこめて伝えられたことのひとつでした。彼は言いました、『神の子供と言えども、その人生を明け渡すまで、誰も安全ではない。神のしもべの奉仕も、そのしもべが自分の人生を投げ出すまで安全ではない。神の民の交わりは、彼らが自分のいのちを明け渡すまで、安全ではない。すべては祭壇まで戻ってくる。』これは、彼が伝道活動の中で強調したことのひとつでした。

二番目に強調されたことは、『主イエス様の比類のなさ( The Pre-eminence of the Lord Jesus)』です。これはある意味・・・・そう、このことを本当に理解するためには、スパークスさん自身を知らなければなりません。彼にとって、主イエス様は、すべての始まりであり、終わりでした。主は、アルファであり、オメガであり、始まりであり、終わりであり、最初であり、最後でした。彼はすべてをキリストの中に見たのです。彼は、新しい創造のすべてはキリストにあると信じていました。新しい人はキリストの中にありました。全てはキリストの中にありました。これが彼の伝道活動において格別に強調されたことです。『主はどこにいたのか?』と、彼なら言ったでしょう。『主は、この人の人生のどこにいるのか?主イエス様は、この人の働きのどこにいるのか?主イエス様は、この人の奉仕のどこにいるのか?』彼はよく言っていました、『もし、あなたや私が神の御座まで真直ぐに進んでいきたければ、するべきことはただひとつ、御父が主イエス様に与えたのと同じ場所を、私たちも主に与えることだ。これが過ちから、妥協から、後退から、御霊から始まりながら肉に終わることから、守られる道なのだ。』

それから、三つ目に強調したいことがあります、『神の霊的な家(God's Spiritual House )』です。彼は、教会を神の霊的な家とみていました。彼は教会を、キリストの花嫁であり、小羊の妻、そして、主イエス様のみ体とみていました。教会に対する彼の理解は誰もが圧倒されるほどのものでした。スパークス兄弟が神のみ言葉から教会を説き明かすのを聞いた人は、誰もが息をのみました。それほどの洞察、それほどの理解でした。彼は神の家、神の霊的な家、私とあなたが共に組み合わされた生ける石であるこの家は、私たちが主の聖なる宮へと成長していく場所、御霊にある神の家であると信じていました。『これは』、彼は言いました、『歴史の中心です。これは贖いの中心です。』ここで、彼はよくこう言ったものです、『救いよりも大きなものがあるのです。』あああ!たくさんの人が、これを聞いて腹を立てました!『救いよりも大きなものがあるとは、なぜそんなことが言えるのだ?福音に反することばだ!間違っている!聖書的ではない!』スパークスさんは、救いは目的地ではなく、目的地に達する手段であるといつも言っていました。主の目的地とは、ご自身が住まうところです。主の目的地とは、ご自身の霊的な家です。主の目的地とは、霊にある主の家庭です。主の目的地は、霊の中にあるご自身の家です。そして、救いは、その場所、神の霊的な家へと私たちを導く手段に過ぎないのです。

そして、四番目になりますが、伝道にあって彼が強調したことのひとつは、『いのちのための戦い(The Battle for Life)』です。彼はよく言ったものでした、『あなたの中に霊的ないのちがあれば、必ず地獄が出てきてそれを消し去ろうとする。あなたの働きに霊的ないのちがあれば、地獄の軍勢が現れて抵抗する。私たちの交わりに霊的ないのちがあれば、地獄の軍勢が現れて敵対する。私たちは信仰の戦いを力強く戦い、永遠のいのちを守り抜くことを学ばなければならない。主にあるいのちにとどまるためにはどうすべきか、学ぶ必要がある!』彼は、何度も繰り返して言ったものでした、『神につながることはすべて、主のいのち、主のいのちにつきます!主のいのち、そして、また、主のいのち、豊かなるいのち。死ではありません。主のいのちです!十字架の死でさえ、私たちを主のいのちへと導くものであり、そして、キリストの死をよりよく知るほど、私たちはキリストのいのちをよく知るようになります!だからこそ、主のいのちを得るために戦うのです。』これが、この兄弟の生涯で、ことさら強調されたことです。私たちの多くはおそらく、他の何よりも、すなわち、立ち上がること、打ち勝つこと、手に入れること、前に進み続けることよりも、このことを彼から学んできたでしょう。これは主のいのちのための戦いであり、主はそれを勝ち抜くことのできるお方です。

最後に、もうひとつ強調されたことがあります。これは、『王座に触れる中で(In Touch with the Throne)』いう短い本の中にあります。その全ては、とりなしに関わることです。スパークス兄弟はよく言っていました、『教会の本当の呼びかけは、とりなしへと向けたものです。とりなしは、祈りよりもはるかに大きなものです。祈ることは誰にでもできます――とりなしができるのは、成長したものだけです。赤ん坊であるうちは、苦しむこともできません。最低限、ある程度の成熟度に達して初めて、何かを心に受け止めることができ、そのことで苦悩し、そこに重荷が生じるのです。』このようにとりなしを強調した彼は、本当の勝利者とは、ほとんど常にとりなす者であると信じていました。彼らは、とりなすすべを知っています。彼なら言ったでしょう、『とりなしに必要なのはあなたの唇ではなく、あなたの全て、あなたが持つ霊、魂と体の全てが求められます。とりなしには、一日に十分もいらないし、一時間のうちの十分、一週間に一時間、一ヶ月に一時間すらかからない。そこで必要なのはあなた、一日二十四時間、週の七日、ひと月の全ての週、一年の十二か月、あなただけが必要です。これが絶え間ない祈りです。』

これらが、この兄弟の奉仕の中で強調されてきたことです。

さて、この兄弟には、いくつかの・・・・少なからぬ欠点もありました。台北の皆さんには話しましたが、エリザベス・フィッシュバッカー嬢との会話の中で、『ウォッチマン・ニー兄弟には何か欠点がありましたか?』と、私は訊いたことがあります。そして、よく覚えていますが、エリザベス・フィッシュバッカーは私を見ながら言ったのです、『欠点?ウォッチマン・ニー兄弟に欠点があったかですって?』そのとき、私は思いました、『ああ、彼女は怒りだしそうだ。』それから、彼女が言ったことは、『ニー兄弟は、大きな欠点をいろいろ持ったすばらしい人でした。りっぱな人であるほど、大きな欠点を持っているものです。』私たちの兄弟、スパークスさんは、本当にすばらしい人でしたし、彼には本当に大きな欠点がありました。

彼の疑り深い性質については、すでにお話しました。これは本当の弱点でした。スパークスさんは、全く人を信用しませんでした。そして、別の弱さは、彼があらゆる面で英国人的であったことです。さて、あなたたち中国人は、完全に英国人であることが、大きな弱さとなりうることが理解できるでしょう!英国人たちは(中国人と同じように)、天の御国の気質は、基本的には英国的なものであり、また、主イエス様の似姿に変えられていくことは、英国人のような姿に変えられるということに違いないと、いつも考えていました!基本的には、これは本当の弱点でした。

スパークスさんは、自分が英国人として生まれたことを、とても感謝していました。このことである種の帝国主義が入り込みました。それは弱さでもありました。彼は、ラテン民族には非常に大きな弱点があり、アジア人には非常に大きな弱点があり、また、ユダヤ人も実に大きな弱点を持っていると考えていました。彼は、まさしく英国人だったのです!現在の世界に生きている私たちには理解しがたいことですが、英国人であるということは、何よりも偉大なことであると、心の底から信じる人たちがいたのです。これは、私たちの兄弟のもうひとつの弱点でもありました。

この兄弟にはまた別の弱点があり、彼はなかなか人と打ち解けない男でした。おもしろいことに、彼は、アメリカとアメリカ人が大好きでした。英国に住む私たちにとって、アメリカはいつも驚きをもたらしてくれました。彼は、あらゆる面で、誰よりもアメリカ人らしくない男でした!彼は、いつもネクタイをしていました。いつでも、スーツを着ていました。彼は、いつもすきのない正装をしていました。彼は、行儀作法や規約をいつも厳格に守っていましたが、ご存知のように、私たちから見たアメリカ人は全く違っていました!彼は絶対に足を広げて座ろうとはしませんでした!絶対にです!床に寝転ぶこともしませんでした!長いす全体に体を伸ばすこともしませんでした!彼は、決して、『ハーイ!』などと言いませんでした。絶対にです!スパークスさんはそのような人ではなかったのですが、それでいて、彼はアメリカ人が大好きでした。その理由はと言えば、彼自身があまりに堅苦しい人だったので、彼の目に映ったアメリカ人は、暖かみがあり、開放的で、そして、ある意味、全体的にいって・・・・説明しにくいのですが・・・・彼は自分らしくいられること、アメリカ人たちの中にいると、本物の自分でいられることに気づいたのです。一方で、英国人たちの中では、彼は自分自身でいることができませんでした。彼はいつも、そう、紳士でなければなりませんでした。これは弱さでした。

スパークスさんのもうひとつの弱点といえば、彼の権威主義でした。彼にとってこれは自然なことでした。全くもって当然のことでした。彼は、自分を完全な権威を持った人間とみなしており、これが、働きと交わりにおいて非常に大きな障害となりました。

私たちの兄弟にはこのような弱点がありました。その全ては、主イエス様の中へと飲み込まれて消えてゆきました。スパークス兄弟のことで今も心に残っているのは、ここに挙げた弱点ではありません。こういった弱さは、神が彼の中でされたことを、はっきりと浮き彫りにしただけでした――彼のことは、いつまでもこのように思い出すでしょう。

私は、ほかの誰よりもスパークス兄弟から多くを受け取ったと思っています。わたしが覚えている彼は、常に主イエス様を――ことばだけでなく、自分の生き方によって――あがめ讃える人でした。彼の存在そのものが、主イエス様の何かを運んできました。彼に会うとき、いつも心に刻まれる思いはこれでした、『主とはなんとすばらしいお方だろう!』彼が何かを話し語ったときは、『主イエス様は例えようもなくすばらしい』という思いが残されました。彼は、いつもイエス様を大きく讃えました。これは、他にはないことです。宣教をしても、主イエス様のすばらしさについて、このような印象を残すものはごくわずかしかいません。これは神が彼の内側で行ったことであり、それによって彼の存在そのものが、主イエス様を引き入れ、彼の働きが主の栄光を現したのです。これが、今も心に残る第一の印象です。ただひとつの印象を話すように言われたら、私はこの印象だけをお伝えしたでしょう。彼の好きな聖歌は、『いざたたえよ、おおいなる御神を(How Great Thou art)!』と繰り返すあの歌でした。

私の心に残る二つ目の印象は、彼がいつも前に進んでいたことであり、スパークス兄弟は常に、手を真直ぐに伸ばし、前に向かって動いて、とどまることなく、どんな時も進み続けていると、誰もが感じました。彼の伝道活動だけでなく、彼の存在そのものも、このように感じられました。彼が好んだ聖歌のひとつは・・・・あなたの歌集には出ていないようです・・・・ここに載っていないのは残念ですが・・・・この歌は、清教徒の指導者のひとりが発したすばらしいことばから生まれたものです、『主にはもっとたくさんの光と真実があり、それはみ言葉からあふれ出てくる(The Lord hath yet more light and truth to break forth from His Word)。』彼はこの聖歌が大好きでした。私たちは大会で、よくこの歌を歌いました。『主にはもっとたくさんの光と真実があり、それはみ言葉からあふれ出てくる』、この清教徒の指導者は言いました、『マルチン・ルター、フルドリッヒ・ツヴィングリやジョン・カルヴィンといった人たちで満足してしまうのはやめよう。いつも、もっと多くの人たちがいるし、この人たちがすべてではなく、他にもたくさんの人がいるのだ。』スパークスさんはよく言っていました、『ジョン・ウェスリー、チャールズ・ウェスリー、ジョージ・ホウィットフィールド、ジョージ・フォックス、J・N・ダービーやジョージ・ミューラー、アンソニー・ノリス・グローブス、こういった人たちを越えていこう。もっと前に進もうではないか!』彼はこうも言いました、『皆には私を越えて進んで欲しい。』そうならなかった人たちもいます。『主にはもっとたくさんの光と真実があり、それはみ言葉からあふれ出てくる』、続けて彼は言っていました、『そう、ただ二度目の祝福があるだけではなく、三度目があり、四度目があり、五度目があり、六度目があり、七度目があり、八度目があり、そして、百度目があり、千度目があるのだ。前に進みなさい!主があなたのために備えている全てのものを目指して行きなさい!もっと、もっと、たくさんのものがある。』これが、今も消えずに残っている印象の二つ目です。

そして、今も私の心に残る三つ目の印象とは、彼がいつも油注ぎのもとで伝道をしていると思えたことです。この兄弟が油注ぎの元を離れて働いているのを、私は聞いた覚えがありません。これは大したことです!油注ぎのもとで働こうという気持ちが全くない人たちもいます。ある時は油注ぎのもとで働きながら、ほとんどの場合は油注ぎから離れて働く人たちもいます。油注ぎの下でたくさんの働きをしながら、時にはそうしない人たちもいます。どんなときも、必ず油注ぎの下で働く人に出会うことはめったにありません。これは奥義、この兄弟が持っていた奥義です。彼は、油注ぎの下にとどまり、死んだ食物を与えず、自分の考えたものを与えるのではなく、自分が神から受けたものだけを与えるためにはどうすればよいかを知っていました。彼はこのようにして油注ぎの下で主に仕えたのでした。

最後にもうひとつの印象を語るとすれば、それは、神に与えられた使命を成し遂げようとする不屈の覚悟というべきものでした。ある出来事を私は覚えていますが(私はその場にいませんでしたが、数人の友がいました)、それはインドで開かれたバクト・シン兄弟の大きな会合でのことでした。会場には一万六千人が集っていました。空調設備はなく、扇風機もなく、信じられないような熱気、信じられないほどの湿気、信じられないほどの埃でした。兄弟が話しているあいだ、彼のことばによると、『教会の向こうの端からこちらに向かってくる影が見えました。』彼は言いました、『私は自分がどこかおかしいのかと思い始めました。大勢の人を超えてゆっくり近づいてくるこの黒い影は何だろう?』その影が近づいたとき、彼は突然、人々が体から何かを払い落とすのを見ました。それは油虫、東洋にしかいない大型の油虫の軍団でした!それが大群となって、押し寄せてきたのです!少し離れた土地で洪水があって、集団移動していた何百万という虫が、この教会の建物のいたるところから入り込んできました!それでも、私たちの兄弟は話をやめませんでした。多くの人々と同じように、彼は油虫を非常に怖がっていたのですが、主は彼に小さな助け手を送ってくれたのです。虫たちが徐々に近づいて来ると、小さなカメレオンが落ちてきて、彼の肩に登りました。それは非常に動きの遅い生き物でした。このカメレオンは肩の上によじ登ると、そこで座り込みました。油虫は一匹も近寄りませんでした!こうして、彼は、務めを果たしたのです。こんなことが信じられますか?これが、不屈の覚悟というもの、英国人が持つ最良の資質です!

また、別の会合のこと、私もその場にいたのですが、この兄弟が立ち上がって話し始めると、照明に突然、何かが起こりました。電灯が、パチパチと点滅を始めたのです。その会議場の全体で、四十五分間にわたって、すべての照明が点いたり、消えたりし続けました。そして、私たちの兄弟は、そのあいだも途切れることなくずっと、最後まで壇上から語り続けました。その点滅に気を取られたので、彼が何を話したのか、覚えていません。つまり、彼が言っていたことを心に受け止めることはとても不可能だったのですが、私はそれでも、実に大きな祝福をむねにして帰りました。それは驚くべき粘り強さ、屈することのない決意でした!この会合でサタンが勝つ見込みはありませんでした。彼はこの会合における主の目的を果たそうとしていました。興味深いことに、誰も彼の話しを覚えていないことを思うと、その会合における主の目的は、この兄弟に与えられたことばではなかったのです!テープ・レコーダーも、四十五分間に渡って、何度も入ったり切れたりしていたのですが、驚くべきことに、そこにいた誰もが祝福されていたのは、そこでまさしく、『いのちのための戦い』が現実に行われていたからです。

これまで話してきたのは、オースティン-スパークス兄弟について、今も心に強く残っている思いでです。彼と知り合えたことを、私は神に感謝していますし、彼から受け取ったものについても、神に感謝しています。私たちも彼のような強い信仰を持てるように祈っています。

ありがとうございました。


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